疎開通信946

北海道釧路市に疎開しています。

釧路市オフィス街から釧路町イオンまで徒歩で行ってみる大作戦。

2020年から世の中は大変な状況になっています。私もずっと長崎〜首都圏で仕事をしていましたが、ココで一旦「実家のある釧路」に疎開することにしました。

短い帰省は何度もあったけど、こうして長期間腰を据えて滞在するというのは実に40年ぶりのこと。知らないこともたくさんあります。そこで私としては「ともかく歩き回って」今現在の釧路の様子を探っていこう!と。

そしてその報告をコチラのブログでしていこうと思います。


★釧路の街の規模。

さて。移住して初めておこなった「作戦第1号」。それは「遠い郊外と思っていた釧路町イオンが実際はどれくらいの距離感なのか確かめてみる」でした。

現地民ならみんな知ってるように今や釧路の中心地はすっかり北と西に移動し、かつての中心街(駅前から十字街)は寂れるままとなっています。半世紀前の感覚だと「釧路町?セツリ太でしょ?遠いねえ…」なのですが、そんな遠い場所が釧路の代表的商業圏となるわけがない。実際はさほど遠くないんじゃないか。首都圏で歩き慣れた人からすれば、むしろ近い方に入るのではないか。そんな仮説を立て、実際に街の中心部である「東横イン」から「釧路町イオン」まで歩いて確かめてみました。

これが当日のタイムライン。ほぼ直線のまま行けることが判ります。道も旭陸橋ルートを使わない限りはずっと平坦で、特に大変な部分もありません。かなり大雑把に言えば「ただただ川北通り(もしくはその周辺の道)を北上してゆく」だけです。時間にして40分前後といったところでしょうか。

それでは実際の写真で辿ってみましょう。


出発地点を「東横イン」とします。バス停だと「十字街7丁目」目の前にあり、だいたい北大通りの中心かなと思います。


東横イン正面の交差点を渡り、そのまま直進していきます。


栄町平和公園の裏側を通ります。以前はジャズ喫茶「THIS IS」があった道筋ですが残念ながら閉店してしまいました。


旭小学校跡に出来たショッピングセンターまでまっすぐ進みます。


奥の駐車場から左裏に抜け道路を渡ります。


押しボタン式横断歩道があります。意外に交通量が多く大型車も通るのでしっかりボタンを押して歩行者を青にしてから渡りましょう。


道路を横断してすぐに木工場踏切があります。渡ります。

踏切を渡り3本目の丁字路を斜め右。実はココ雄別鉄道の廃線跡です。右折せずに真っすぐ行けば川北通に出るので道を覚えるのが面倒な人はそのまま川北通りから右折し直進していけばいいでしょう。

近道としては1つ目の信号を左折で川北通りに出るのですが、このまま直進して釧路製作所*まで行ってもあまり変わらないです。とりあえず左折のルートを進みます。

すぐに川北通りに出ます。川北通りに出たらそのままローソンまで直進です。
*釧路製作所ルートのほうはさっきの信号で左折せずに突き当りまで直進します。
*鉄道ファンであれば釧路製作所の名物「雄別鉄道の蒸気機関車」が見られるので楽しいルートかもです。道は製作所で行き止まりなので左折します。

そうして出てくるのがこの5差路。川北経由でも製作所経由でも、最終的にはココに出ます。ローソンと団地の間を直進します。写真では真ん中の道です。

直進してゆくと古川橋の5差路に出ます。右斜めに入り古川橋へ。写真では真ん中の道です。

古川橋からは最後までずーっと直進です。わかりやすい。

やがて旭バイパス(国道44)との合流点に出ます。そのまま直進。ココは釧路市釧路町の境になりアセッツリ橋を超えると釧路町になります。

まっすぐ国道ロードサイドが続いてます。

もうイオンの看板が見えます。道自体が右カーブなので道に沿ってそのまま行きます。いろんな巨大チェーン店を眺めながら進むのも楽しいです。途中でどこかに寄ってもいいですよね。

水族館のある有名店や中古車店が見えるともうじきです。

いきなり壁のようにイオンが現れます。左奥が駐車場になっておりどちらかというとソチラが表玄関のような感じなので国道側は目立ちませんね。

バス停も目の前。
ただし駅の方に戻るには道路を対岸に渡らなくてはなりません。これがけっこうな遠回りになり億劫ですね。

イオンの前に釧路町の案内板があります。釧路市釧路町はやっぱり自治体が異なるのでカラーも違いますね。「違う街に来たぞ」というワクワク感というかプチ旅行感があります。

イオンの中にはバスの案内板がありました。これは便利ねえ。案内板もそうだけど、きめ細かくフォローがされてるのはありがたいことですね。

ただの散歩やウォーキングなら、このまま戻ってもいいでしょうけど、買い物などを楽しむのであれば、帰りはバスを使うというのも選択の一つかと思います。ココから東横インまで270円で戻れます。買い物して荷物になっても平気ですね。バス路線も割と頻繁にあるほうだと思いました。まあでも大まかに「1時間に1本くらい」とおぼえておくといい感じですね。

以上です。いかがでしょう。

私は首都圏時代もたくさん歩いていたので、これくらいなら片道だけでも毎日徒歩で行けるやろと思いました。
おもしろかったのは今現在の私の最寄りスーパーが意外に近かったこと。子供の頃からの印象で「すごく遠い」と思ってたんだけど、調べてみたら実は川崎在住時代の部屋から駅までよりも近かったのですよ。首都圏で「駅から便利」というとだいたいが「徒歩10分」ですし、それで充分近いわと思ってたんだけど、それよりも今の最寄りが近かったというのは本当に驚きました。子供の頃は大きな街だと思ってたからねえ。そういった意味のアップデートのためにも、今後もたくさん歩いてみるつもりです。


というわけでまた次回!

暗黒の川北ラプソディ

釧路時代の10代までは概ね暗黒時代だったと散々書いているが、特に就学したての 6歳の頃が最もキツかったように思う。まだ幼少だったから感受性が強かったというのもあるが、何より護ってくれるべき親が離れてしまったというのも大きかった気がする。どういうことかというと父があまりにも不甲斐なかったため、私の就学と同時に母が職場復帰したのである。そう。つまり共働き。いきなり6歳にして「誰も待っていない家」に帰宅しなければならないという日々が訪れる。

通った小学校というのもわけありで。父の勝手な要望により「国立の小学校」に越境通学させられたのである。田舎住みの6歳いきなりの都会へ列車通学!

そして放課後も容赦なかった。「ぼっち帰宅」が 1ヶ月ほど続いたあと、放課後から親の帰宅時間まで(特別な計らいで)私は学校近くの保育園&母子住宅に預けられることになったのだ。新入りで本来よそ者の私を施設民が暖かく迎えてくれるわけがない!私に対するイジメが容赦なく開始された。そしてそれは我が家が学校の近くに引っ越すまで半年間続いた。

その学校と放課後に預けられた施設はともに釧路市の川北にあった。そのエリアは駅(線路)を挟んで釧路の中心街とは反対側に位置しており、駅の向こうであることから当時はそのエリアを「駅裏」と称していた。「裏」という名前がすごいよね。「ココは街の中心ではない。あくまでサブであり裏キャラです」と言ってるのである。そんなエリアだから「猥雑」だったり「負のもの」は全部こっちに集められていたような印象があり、私の子供時代の体験と相まって「暗黒エリア」というイメージが後年まで残り続けた。

今思えば田舎住み(村民)の私にとって、これは人生初の「上京体験」だったのだろう。私は「都会の洗礼」を受けたのだ。6歳の身にはかなりきつい洗礼だった。だからこうして今も引きずっているのである。ココで散々書いていた「暗黒の釧路時代」というのは、もしかしたら「田舎から釧路市に"上京"して受けた様々な洗礼」に対する拒否反応だったのかも知れない。6歳まで別な場所に住んでいたのであれば都会に馴染めなかったのは当然なのだ。そうして馴染めなかった自分は独自の感性を構築していくことになったのであろう。ふむ。


というわけで。
そんな暗黒の地「川北地区」を訳あって最近巡ってみることになったのだが、これがまたなかなかヘヴィーな体験となったので当時の思い出など含めつつ書いてみようと思う。まずは私が駅から学校まで通ったルート。そして当時預けられていた施設の様子などを写真とともに紹介してみることにする。


列車で駅に到着。私は鉄道好きなコドモだったからココまではOK。

問題はこの先なのだ。
まず小学校が駅の北側地域にあったわけだが、駅出口は街の中心である南側にあったため「線路を渡る」ということが必要になる。これは今もどこの駅でもそうね。鉄道が街を分断してるのはよくあること。車も人も線路を超えなければならない。

それで釧路の場合。その反対側に渡るルートが「地下道」なのだ。地下道ってどういうものかわかります?もちろん地下を通るんだけど。当時のことですよ。照明は暗く衛生の観念も乏しく。そして当時の「駅裏」は猥雑な飲み屋街ときたもんだ。

そんな街と駅を繋ぐ地下道が小綺麗であるわけがない。
臭い汚い暗い怖い。
4Kの洞窟みたいな地下道を6歳が毎日通るのである。

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これが現在の地下道の入口である。
綺麗にリニューアルはされたのである。

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入り口もカラフルに飾りイメージ刷新の努力は認められますが。

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市民が描いた画などが展示してあります。子供の絵もある。でもやっぱり天井からの圧迫感と暗い印象は残る。ちなみに釧路駅は大きく線路の本数が多いので地下道はやたら長い!最初のうちは怖くて途中までしか進めなかった。

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当時の子供目線から撮ってみたがやっぱり暗くて怖いのである。

ちなみにニオイですが。
今でも忘れられないです。特有のニオイがする。
そしてそれは今現在も仄かに残る(気がする)。

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地下道出口。
今は出てから左右に分かれるのですが当時は左右の出口が別だったのよね。
私たちは学校のある側、右を登っていった。

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出るともうそこは猥雑歓楽街のミニ商店街。
このミニ商店街は飲み屋長屋も併せて3本並んでた。
呑んだくれたりストリップ場に通うおっさんなどがたむろしてた場所。
そこを6歳が(略)。

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もう今はすっかり寂れて廃墟街。
建物だけは残ってますが、徐々に解体が進んでる模様。

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商店街を抜けて駅裏の大通りに出る。
いかにも「裏」という感じの猥雑な歓楽街通りだった。

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子供目線で撮ってみる。今でも怖いんだけどw
ちなみに半分くらいは廃業して廃墟状態。
アーケードにありがちな屋根があったかどうかは覚えてないんだよな。
どっちにしろ「暗い汚い」歓楽街だったことは確か。

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そしてランドマークやわ。
日劇という成人映画専門館がありました。
たまにストリップとかもやってたんじゃないかな。
エロなポスターなどもバリバリ張り出してあった。
そんな中を6歳が(略

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途中で踏切の横を通ります。
地下道を通らなくてもココ経由でもよかったんだろうけど、当時は踏切事故も多かったので地下道を通るように決められたのかも知れない。今は歩道橋が架かっています。

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そして第4の難関へ。
これは線路を超える巨大陸橋なんだけど、この下を潜って行かなければなりません。
ココは臭くはなかったけど隣りが材木置場で木の匂いがしてたなあ。

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木の匂いが漂うなか陸橋の下に向かってゆく。
子供目線でどうぞ。

そして陸橋の下。
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ぜんぶ子供目線写真で撮ってみた。
秘密基地っぽさもあるけどやっぱり圧迫感が。
そして暗くて怖い。変質者でも隠れてたらどうするのか。
ここを通り抜けて学校のある側へ出ます。

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陸橋を出たところ。
右側、今はイオン系スーパーだけどココも材木置場だった気がする。

関係ないけどこのスーパー。
お客層があまりよろしくなくてですね…。
安いけど。
そういう意味では行きづらいお店やね。

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そのまま大通りを学校の方に向かってゆく。
けっこう車通りが激しく幹線道路だった気がする。平地で遮るものもないので風が吹きすさんでキツかった思い出。当時の駅裏地区はイメージからして荒涼としてたからなあ。

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次の交差点を右へ。
ココで見えてくるのが保育園と母子住宅(母子寮)。私が放課後に預けられていたのはここだったのである。なんか綺麗なマンションぽいのが建ってるけど実は違ったの(後述)。

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そして一つ目の角。
左が空き地だけど当時は団地があって何棟もアパートが建ってた。さっきの保育園&母子寮は右。学校はこの先か手前(写真を撮ってる場所)にあったと思われるのだが、ちょっと確証が持てなかった。

当然もう当時のものなんかそのまま残ってないと思ってたのよ。だからココまで来て、この様子を見ても想定内で「ああこんな感じかー。面影ないなあ。わからないなあ。。」と思っておとなしく帰宅したわけです。

が…。

なんと!

その後たまたまグーグルのストビューで見てみたところ!
当時のままの建物の様子が残っていたのです!

タイムスタンプを見ると2015年!

つまり2015年までは、この姿のままココに残ってた!ということなのよ!

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これが残ってたストビュー。2015年。
私が預けられていた「双葉保育園」がそのまんま出てくる。
当時一緒に遊んだ団地の仲間もたぶんココの人たち。
私をイジメた連中もココの人たち笑。

それにしてもストビュー。
これはすげえ…。と見たまましばし絶句してたわね。

6年前なら私ココに来れたねえと思ったもんな。
もしリアルでこれ見たら私はどう感じただろうねえ。


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そして今現在の当地。

何かの施設かなと思ったんだけど張り紙を見てみたら公営住宅だったの。
最近の公営住宅はモダンに作りますなあ。
ココは双葉の跡地なので名前をそのまま「ふたば」にしたんでしょうかね。
由緒ある名前だもんね。
ちなみにこの保育園が元は母子寮でもあったそう。

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そして手前の点字図書館。
私の記憶では当時の学校はココだったと思ったのです。学校の跡地は福祉施設になったよと聴いた覚えがあったので*1


余談だけど、この写真を撮ってたときに当住宅住民(とおっしゃる方)から、どういう理由で写真を撮っているのか?と問い質されたんですよね。もちろん理由はしっかり説明したけど納得いってない様子だった。今や思い出巡りもリスクを伴うものだわ。でも私のほうがその方より遥か昔から縁があったわけだし。住民とは言っても市営の住宅であなたは借りてるだけやんけとも思ってさ。とやかく言われる筋合いはない気もしたんだよな。ちなみに他のマンションとか撮ってて何か言われたことは今まで一度もないです。


というわけで暗黒の思い出は最後の最後まで後味悪く終わった。笑。
思い出は美しくなんかないな。


おまけ。

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現在の周辺の様子。すべて取り壊されたあと今は新しい巨大住宅を建設中でした。また新しい歴史が始まるのかね。でも建物は新しくきれいになっても、この地域の淀んだ空気感は今後も変わらないかも知れません。私が子供の頃と同じまま*2



★参考資料
図書館でこういうデータを共有してるのね。
素晴らしいことですね。

crd.ndl.go.jp

*1:その後うちにあった古地図から場所はココと特定できました

*2:この団地は2022年に完成しました

簡易軌道🚃回顧録〜ジーゼルに乗りに行こう★2025 追記版!

ご来訪ありがとうございます。
この回顧録も発表から「20年」となり、多くの方々に読まれ役割は充分果たしたかと思われます。今までの 20年間にも渡る長きのご愛顧、本当にありがとうございました。
心より感謝申し上げます(2018)。


★2025年 追記
1950年くらいと思われる中茶内駅構内の写真が発掘されたので公開。
最新AIによりカラー化して掲載します。

浜中町営軌道 中茶内 1
左が西円方向 右が秩父内→茶内駅方向
中線に牛乳缶運送用のトロッコ。
皆が座ってるのは牛乳缶を置く台ですね。
いちばん左にいるのが私の母ということです。


浜中町営軌道 中茶内 2
もう少し西円側に移動したもの。
位置関係から想像しますと撮影者は別寒辺牛ゆき線路の外あたりに立ってるのかな?


今昔マップ 中茶内駅
今昔マップによる中茶内の位置。1961→現在。
わからない方が多いようなので提示しておきます。
みんなが写ってる写真は踏み切り左側構内となります。
空撮の上が西円方向。左が若松〜別寒辺牛のほうになります。


★簡易軌道見聞録(湯口徹)より
簡易軌道見聞録で紹介されている中茶内に関する写真。
1960年頃。*著作権の関係からカラー化して掲載。

2枚とも見開きページなので中央部が歪んでいます。

新しい自走客車が納品され試運転の様子だそうです。
うしろの建物が祖父宅となります。



中茶内駅構内。右が祖父宅となります。
駅名標は初めて見ました。こんなのあったんですねえ。
子牛が居る家の部分🐄
何か消された跡があるが家族が写っていたかも?
元の写真が気になります…。

母の説明では当時の祖父宅は地域の集落をまとめる役割を負っており事務手続きや電話の利用などで様々な人々が出入りしていたということです。つまり駅事務所のようなものを兼ねてたということでしょうか。

どちらもオリジナルの写真があれば見てみたいものです。


★Youtube
最後に。現在も消されず残ってる2本の動画をご紹介しておきます。
全部で5本あったのですが残りの3本は放送局所蔵品ということで削除されました。
そちらは博物館にあるかもしれません。









「回顧録」執筆者である私(作曲家P)は浜中町営軌道担当青田豊氏の甥にあたります。今後も活動に勤しんでゆく所存でございますので応援ご贔屓のほど何卒よろしくお願いいたします。


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中茶内駅 / 牛乳缶を載せるホームの上に並ぶイトコ4人
1965年頃〜いちばん左が私です🙂

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